熊野三所大神社
くまのさんしょおおみわしゃ

御祭神
 家津美御子大神
 夫須美大神
 速玉大神
 
※史料によると
 彦火々出見尊
 天照大神
 大山祇尊
末社
 三狐神(食物ノ神)
 石宝殿
 丹敷戸畔命(地主ノ神)

  にしきとべのみこと

鎮座地 和歌山県東牟婁郡
         那智勝浦町浜の宮

        
 JR那智駅下車すぐ。国道42号線を渡り数歩も行くと、向かい側に鳥居が見えてくる。
 境内地は2000平方メートルあり、正面に向かって右手の大楠が立派にそびえ立つ。
熊野三所大神社は、熊野九十九王子の一つ、
浜ノ宮王子権現である。別称は、渚の宮、浜の宮三所権現、錦王子ともいう。
 由緒が古く、熊野三山に次ぐ格式の高い神社である。

熊野三所大神社(国指定重要文化財)

御祭神 家津美御子大神
    夫須美大神
    速玉大神

摂社(石宝殿)
   丹敷戸畔命(地主ノ神)
   三狐神(食物ノ神)
   若宮跡(浜ノ宮王子社跡) 渚の森にあり、社殿は宝永の津波で流出

由緒
 古来「渚の宮」「浜の宮王子社」「熊野三所権現」と称せられ、補陀洛山寺との神仏習合の形態が今に残り本殿のすぐ前で参拝ができる数少ない神社である。熊野年代記に欽明天皇廿四年「浜の宮に宮殿出現」とあり、同三十年補陀洛観音出現とあり。(約一四〇〇年前)尚天武天皇五年八月大暴風雨「浜の宮王子社流る」とある。平家物語、維盛入水の頃に「浜の宮と申す王子の御まへより一葉の舟に棹さして」とある。熊野詣日記(足利義満の側室)に「申の半時に、はまの宮に御つき御奉幣、御神楽常のごとし」とある。

渚の森(社寺前の森を云ふ)
 昔の面影はないが「紀路歌枕抄」にもあり、古来和歌によく読まれた名称の森。
 続古今集 衣笠内大臣
「むらしぐれ いくしほ染めてわたつみの 渚の森の 色にいづらむ」

以上

 境内の看板より
 熊野年代記に「欽明天皇二十四年(563)癸未浜宮宮殿出現」とあり、熊野年鑑にも「欽明天皇二十四年癸未浜ノ宮成る」とある。『続紀伊風土記』及び那智山の古文書には、「那智山の末社なり。」とあって明治初期まで那智山の支配下におかれていた。『祇神寛文記』には「熊野三所権現」とあり、また同記一説には、「錦浦大明神、伊豆箱根両所権現とあるが、いづれが是なるかを知らず。又王子社ともいう。」とある。『平家物語』に平維盛入水のことを記して、「浜の宮と申し奉る御前より一葉の 舟に棹し云々とあるは即ち当社なり、古は此の地に悉く社地にして民家もなかりしに、後世村居して当社を産土神とせり、」とある。社殿は慶安元年(1648)の再建と伝えられる。
 明治六年(1873)村社に列し、同四十年(1907)四月幣帛料供進神社に指定された。
 当社祭神三体は、明治二十四年(1891)七月、美術参考資料の鑑査状を政府から付与されている。
 社殿は檜皮葺で鈴門がなく、参拝者は直接神殿(本殿)の前で参拝できるようになっており、氏神と氏子の親密な接触を感じられる特異な社殿形式をもっている。
 写真右下から、本殿の右脇に鎮座する、丹敷戸畔命(地主ノ神)と、本殿左側に鎮座する三狐神(食物ノ神)・いずれも石祠である。


天台宗 補陀洛山寺
 隣接する天台宗 補陀洛山寺に、復元された「渡海船」が収蔵されている。

 補陀洛渡海船
生きながらに難解の観音浄土(補陀洛浄土)をめざして行われた一種の捨身行である。平安時代から江戸時代まで20数回にわたり、那智の海岸から当寺の住僧達が渡海した。この渡海船は、那智参詣曼陀羅をもとに平成5年南紀州新聞社主、寺元静生氏によって復元されたもので、入母屋作りの帆船で四方に発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯(もがり)の鳥居がある。


渡海船は思いの外狭くて心細い。
入り口は一つだけ、出口は無い。


境内に建てられている「補陀洛渡海記念碑」
BACK