水無神社 みなし
飛騨一宮水無神社
Google マップ(to:水無神社)
鎮座地 岐阜県高山市一之宮町523
アクセス JR飛騨一ノ宮駅より徒歩5分
     または、JR高山駅より10分
ご祭神 水無神として、御年神を主に
    外十四柱を祀る


 古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。
 史上にあらわれるのは平安初期、貞観九年(867)神位を授けられた記事にはじまる。中世鎌倉時代には社領は付近十八ヶ村に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。

 江戸時代に入って歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般庶民の厚い信仰にささえられ、明治四年五月十四日、太政官布告によって国幣小社に列せられ、明治十年より国費をもって十年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成した。
 昭和二十一年二月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。
 社名の水無『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無瀬河原、鬼河原(覆ヶ川原)の地名となっている。
 この宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称している。
この霊山には一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(1159)には飛州一宮神主から位山の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。


絵馬殿(拝殿)の由来
一、慶長十二年(一六〇七年)
 飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営(当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、安永七年(一七七八年)
 百姓一揆が安永二年に起こり大原騒動と称し、当神社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた

一、明治三年(一八七〇年)
 高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分たちの大切な拝殿として保管した
一、明治十二年(一八七九年)
 氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄罪を求め元の位置に復元した
一、昭和二十九年(一九四五年)
 十年代国の管理の下昭和大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した
一、昭和五十三年(一九七八年)
 宮村重要文化財指定、屋根銅板葺替(従来柿葺)
【案内板より】



ねじの木
 此の神木はその昔日蔭になるので氏子達が伐って普請に使おうとしたら一夜にして幹はもとより梢までねじ曲がってしまい伐木は沙汰止みとなり神のたたりを恐れあやまったと言われます。又、今から凡そ二〇〇余年前、明和九年八月十八日宮川に氾濫があり高山の中橋が流れました。
 しかし、大原騒動があって架替がおくれ安永五年工事がはじまり時の代官大原彦四郎は当神域の大桧に着目し橋材として差し出すよう命じた。困った神社側は一計を案じ此のねじの木を示し神意で一夜の内にねじれてしまったと説明したところ他の杜の木も伐ることが沙汰止みとなりました。向の絵馬殿前にありましたが昭和二十九年の移転工事で現在地に移されました。
正月、例年ねじの木に似せた「こくせん」が参拝者のお土産になっております。
【案内板より】
白川神社
 霊峰白山(二七〇二米)飛騨側の山麓にひらけた集落大野郡白川村は合掌造りの里として世界遺産に登録されているが、その白川村大字長瀬(通称秋町)と同福島の両集落は昭和三十二年(一九五七)御母衣電源開発がはじまり ダム湖底に沈むことになり氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨国一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した。
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