美多羅志神社
みたらし
主祭神 日天八王子(五男三女神)
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと

天之菩卑能命、天津日子根命
活津日子根命、熊野久須毘命
多紀理毘売命、市寸嶋比売命
多岐都比売命

鎮座地 三重県鳥羽市答志町984
MAPCODE 982 063 756

 三重県鳥羽市答志島の東側に鎮座する。答志島へは、鳥羽の佐田浜港から離島行きの市営定期船「答志島(答志・和具・桃取)行き」が出ている。佐田浜港〜和具は約20分、和具港から徒歩約10分ほどで美多羅志神社へ到着。
 鳥居の右手の看板に「磯のあわびと美多羅志詣で」とあり、美多羅志神社は五男三女の子授けの神で、特に御夫婦で(メス・オス)の鮑《あわび》をお供えして願わくば目の美しい美男美女の子の授かるように祈祷しましょう。と書かれている。

 創立年代は未詳。江戸時代の『三国地誌』に「八王子祠」と見え、『志楊畧志』に「八皇子社答志村に在り」とある。明治時代以前は、神仏習合で隣の潮音寺の境内に祀られていた。この八王子社の御造営の記録として、一番古い棟札は江戸時代の「享保八年(一七一九年)金龍山円通寺の子敬法印」の名で残っている。この地に宝暦九年(一七五九年)・安永八年(一七七九年)等二十年ごとに七回の棟札が残っている。

「美多羅志神社」という社名がついたのは、明治になってからである。明治三年の「神仏分離令」によって、「明治四年志摩国英虞郡答志郡神社取調鳥羽藩」文書には、美多良志上社・下社」とある。明治六年村社となり、現在の「美多羅志神社」という社名にして届けている。
「美多羅志」の「美」は美称で、「多羅志」は、古代の海人族「タラシ」一族に由来すると言われている。答志には一番関係あるのは、神功皇后で「オキナガタラシヒメ」と言うのが本名で、『日本書紀』の「神功皇后」の巻に神功皇后が神懸かりして、「新羅を伐採せよ」との神のお告げを聞いたときに、「貴方は何という神ですか」と聞き返したときに、伊勢神宮や住吉大社の神の名を告げられた後、「尾田吾田節の淡郡におる神なり」と答えている。「田節」は、答志の古名で「淡郡」は「海の郡」と言うことで、「私は、答志の海のあたりにいる神である」という意味である。
伊勢の大湊に神功皇后が新羅伐採に行くとき、大船を造ったとの伝説も残っており、答志の海人族が神功皇后に従って新羅(朝鮮)伐採に行ったものと思われる。それに因んでつけられた社名である。
 明治十二年と三十二年に遷宮して、三十九年十二月には神饌幣帛料共進指定社となる。明治四十一年(一九〇八年)一月村内にあった天王社・福之神社・石神大明神社・二十三夜神社・雷電大明神社・白山大権現社・和気稲荷神社・秋葉社・北斗星社・鋤形大明神社・天満宮・山之神社・和具の八幡社など十九の社を合祀している。
 境内にある「龍の顔」に似た椎の木。高さ約15メートル、根元の幹回り約2メートル。平成二十年の六月の例大祭の日に椎の木の折れ曲がり具合が、「龍の顔」にそっくりなのを氏子さんが発見したとのこと。社名の「美多羅志」は、神功皇后の本名「オキナガタラシヒメ」の「タラシ」一族と関係があり、『日本書紀』に新羅伐採のとき答志の神の援助があったことが記載されている。
 海の神である龍神を深く信仰していた神功皇后にゆかりがある神社の由縁により出現したと思われており『龍神さん』の幟が上がっている。
BACK