楢神社
なら


御祭神 五十狭芹彦命
    鬼子母神


鎮座地 奈良県天理市奈良町443

    

● 楢の明神
 楢神社は、神護景雲元年(767)九月十三日に称徳帝の奏聞を遂げ、神託により宮山(上の宮)に創建された。その後、風雪に朽ち兵火に焼失して、現在地に遷座申しあげた。
 東大寺修二会に読誦する東大寺上院神明帳に和邇・楢・巻向とみえて和邇坐赤坂比古神社に続いてナラツヒコ(奈良豆比古)神社と読まれる神社や、また、延喜式神明帳の添上郡にみえる奈良豆比古神社に比定する説もあり、当社の伝聞する説話に符合するのであるが、鬼子母神を合祀して二柱御神霊を祭祀するようになり楢大明神『楢の宮さん』として畏敬され慕われてきた。昭和三十一年に現在の楢神社に改称した。
 社殿は文久二年(1861)春日大社の第五十二次造営に際し払い下げを受け、氏子によって担ぎ帰り移築したものである。
 そもそも、楢の地名は、東方三キロの和邇族の拠点と認められる地域にある西山古墳群のひとつから『佐井寺僧道楽師 族姓 大楢君 素止奈之孫 和銅七年(714)二月二六日命過」と記載された墓誌が発見された。そこに見られる『大楢君』と称する族姓名に由来すると考えられる。また大楢君素止奈は六五十年頃の在世と推定でき、飛鳥時代中期斉明天皇時代の人物である。従って楢の地に、英傑智謀の誉れの高い楢族の遠祖ナラツヒコ命を祭神としたナラツヒコ神社を創建しても不思議ではないし、神仏混淆の時代であり、しかも、佐井寺在籍の僧侶を擁する氏族とすれば、鬼子母神をナラツヒコ命と合祀しても不思議ではない。
 他方、ナラツヒコ命と五十狭芹彦命を同一神とする説話は、日本書紀の一書に曰くとして取り上げられていて当社の伝聞にも符合する。それ故に、明治の廃仏毀釈のおり、祭神がナラツヒコ命から五十狭芹彦命となり、神社名がそれにならって動いたとしてもやむ無いことであろう。ナラツヒコ命、即ち、五十狭芹彦命の智・仁・勇に秀でた英傑智謀のご神徳を尊び、崩御されたとする北陸の土地から慈照方便深く伐苦与楽の神であり、和光同慶の眼を開き給もうて小児を愛し万民撫育の慈愛の御神徳の高い鬼子母神をお迎えして合祀し、二柱の御神霊を併せて楢大明神として祭祀したのである。
境内末社
 八幡神社  祭神 応神天皇
 恵比須神社 祭神 恵比須神

苅郷末社
 厳島神社 祭神 市杵島比売命
 稲荷神社 祭神 寅太丸稲荷大明神

上の宮摂末社(楢神社創祀の宮)
 神明神社 祭神 天照大神
 春日神社 祭神 天児屋根命
 五柱神社 祭神 五柱神
 稲荷神社 祭神 保食神

境内末社の八幡神社と恵比須神社

拝殿に掛かる絵馬
子供の健康祈願だろうか。

 不思議な御神霊により 『子授けの御神徳』は古くから有名である。御神徳にあやかり授かった子供には、『楢』『奈良』の字を頂いて命名するのが習わしであった。大阪の住友楢光、画家の小出楢重などである。また、健康の優れない子供の場合、子供を神前に捨て子として健康を祈願すれば、丈夫な子に育つ霊能を授けて下さる子供の守護神として広く崇敬されてきた。

『ナツケ(名付け)』生後数日のうちにナツケがある。天理市楢町にある楢神社(祭神 鬼子母神)でナツケをしてもらうので、楢の字のついた名前(男・楢太郎、女・楢菊など)は県下に多い。【出典:日本の民俗 奈良】
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