四条畷神社
しじょうなわて

鎮座地 大阪府四条畷市南野2-18-1
MAPCODE 11 513 456
ご祭神 楠木正行公 [まさつら]
    楠木正時公
    和田賢秀公等
 当地四条畷の戦いで討死された
二十五柱の方々を祭る。

<別称> 小楠公さん

例大祭(ご命日) 二月十二日
 楠木正行は父の死後、南朝の将として活躍し、正平三年(1348)この地で足利軍と激戦し戦死した。明治維新を機に、この地の平田神社神職らが正行をはじめ、同正時、和田賢秀ら四条畷の戦いで南朝に殉じた楠一族将兵の霊を祀る神社の創建を願い出ていた。
 明治二十二年(1889)に至り、神社創立と社号宣下が勅許され翌二十三年四月五日、
御墓所の東、飯盛山麓に社地を定め、創建鎮座した。
 小楠公は、鎌倉時代末期、皇位の継承が公郷幕府の思惑が絡んでもつれ時、不利を覚悟で一身をなげうって、あくまで、正統の後醍醐天皇を守り、湊川において討死された楠木正成公(大楠公)
の長男である。
 桜井の駅の別れにおいて諭された父の遺訓を固く守って成人した小楠公は、南朝方の中心となって、幼い後村上天皇を守護され正義の為に戦われた。積極的な戦法で、しばしば賊を破られたが、この四条畷の戦いにおいて衆寡敵せず、二十三才で討死された。
正行の歌】
 
 四条畷の合戦に行く前、楠木正行は一族および兵百四十三人をひきつれて、吉野の後醍醐天皇の御廟に参拝し、今度の合戦で討死すべき覚悟であることを申し上げ、如意輪堂の壁板を過去帳として各自の名字を書きつらね、その奥に
 
   返らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる

 の歌を書きとめて、生還を期せぬ決意をかため、鬢の髪を切って仏殿に投げ入れ、戦場に臨み、討死した。(『太平記』巻二十六)

 毛利家本には、この歌の上句が 梓弓引返へさじと思ふより となっている。

 この説話は、過去帳に名を入れて読む伝承説話があって、それが正行の伝記に入りこんだのであろう。『発心集』巻四、『三国伝記』巻七に武州入間川の官首の発心後の話として、諸国の観音の霊地を巡拝し、年老いてのち、京都一条革堂の近くに草案を結び、過去帳を書いて有縁無縁の亡霊を弔っていると、女がおとずれ、自分の名をも書き入れてくれというので、存生の人は困ると断ると

 梓弓はづるべしとは思はねばなき人数にかねて入るかな とよんだとある。

 これと同類の話は異本『保元物語』巻二為義降参事、延慶本『平家物語』巻四
宇佐神宮が娘後鳥羽殿へ被召事、『源平盛衰記』巻八讃岐院の事などに見える。
 『保元物語』では源為義の歌となっており、他はいずれも女性の歌である。
 浮世草子『小夜嵐』中の同型の話は和泉式部に関係している。
これらの説話は、女が運搬した信仰説話であろう。  
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