神社
とうけい
本殿 伊邪那美命

上殿 天照皇大神
   伊邪那岐命
   宇賀御魂命
西殿 事解之男命
   速玉之男命 

中殿 天乃忍穂耳命
   瓊々杵命
   火々出見命
   鵜草葺不合命
八百万殿 手力男命
     八百万神
下殿 火産霊命
   植山比売命
   弥都波能売命
   稚産霊命

鎮座地 和歌山県田辺市湊655 

例祭日 暁の祭典 7月25日

 社殿によると、人皇十九代允恭天皇己未八年九月(419)、熊野権現(現熊野本宮大社)を此の地に勧請し、田辺の宮と称し奉ったのが、起源と伝わる。
 又、天武天皇御宇第十三甲申歳(684)六月下五日という説もある。次いで白河法皇の御代、熊野三所権現を此の地に勧請し、三山御参詣に替える。(凡一一〇〇年後頃)次いで近衛院久安三年己(1147)、別当湛快の時新たに天照皇大神以下十一神を勧請し新熊野権現と称し奉る。
 此の様に当社は三度に亘り熊野三山(本宮新宮・那智)各社の御祭神を勧請し、熊野権現の三山参詣に替えると云う三山の別宮的存在で、熊野信仰の一翼を負い、熊野街道(大辺路・中辺路)の分岐点要衝地としての田辺に御神威高く鎮座され、歴代上皇、法皇、公達の熊野参詣時は当社に参籠宿泊し、心眼成就を祈願したのである。
 文明三年(1471)より、杉若、浅野、安藤各領主の篤い庇護により明治維新におよび闘けい神社と改称し現在に至っている。
 闘けい神社は、旧社名を田辺の宮にはじまり、御祭神勧請と故事により新熊野権現田辺の宮、新熊野とり合大権現<いまくまのとりあわせ>(元禄五年建立・石灯籠現存)と四度の社名変還を経ている。
 闘けい神社は、全国唯一の社名で起源は源平盛衰記に著されている故事による。
『熊野別当湛増は、頼朝は外戚姨聟(母方のおば)なり、年来平家安穏の祈祷いたしけるが、国中悉く源氏に志し運び、湛増ひとり背きても後難あり・・・如何あらんと進退思い煩う。所詮人力に及ぶべきにあらず、神明の冥鑑に任すべしとして、田辺の新宮にて臨時のお神楽を始む。神明巫女に託して曰く・・・赤きは平家、白きは源氏とて、七番の鶏を合わせけるに、赤鶏は白鶏を見て一番も闘わずに逃げにけり。この上は、神慮に任せ奉らんとて、熊野三山吉野十津川、死生不知の兵共を語らい集め・・・兵船二百余隻を調へ紀伊国田辺の湊より漕渡り源氏に加わる、云々・・・』当時、社領二十八ヶ所十六ヶ国、二十四ヶ庄に及び、その勢力は源平両軍から助力を乞われるに十分であり、周知の壇ノ浦(海戦)で熊野水軍の力により源氏は勝をおさめたのである。
 ここに熊野とり合大権現の呼称が生まれ、明治維新の神仏分離令により闘けい神社と改称された。
 社殿は、西殿、本殿、中殿、下殿、八百万社(各殿 市指定文化財)の順に配列され、熊野十二社造と呼ばれている。御創建の往事そのままの姿を継承し、六殿に十五神と八百万神が奉祀されている。

 現在の社殿は元和五年(1619)建立を最古として、延宝・貞享年間(1673〜1687)に建立され、数百年を経ている。
 


西殿
 本殿裏の神山は、仮庵山<かりおやま>と呼ばれ、古代祭祀跡指定地である。
 社殿によると、竜神の信仰があり、又経塚も発見されている。仮庵山は、うっそうとした自然林で巨大な楠が、大きく枝を広げたというが、明治の頃に枯損木と偽り切り倒されてしまい、これ以上の伐採を中止させようと南方熊楠氏は関係者を厳しく批判し抗議している。

 南方熊楠氏は明治に出された神社合祀令に反対を唱え、自然運動を唱えた。明治三十九年に闘けい神社の宮司 田村宗造氏の四女松枝さんと結婚している。南方熊楠氏は、仮庵山を「クラガリ山」と呼び「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と評価し、多くの珍しい植物を採集している。

とり合わせの故事から武運の神、勝運の神として仰がれ、導き・開運の信仰がある。

 熊野権現信仰により、過去の救済・現世の加護・来世の安楽と、三世の守護神である。
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